自分が理系でもある思う瞬間

私は一応理系学生ですが、一応は文系もいけるというか、本来は文系です。社会系科目はめんどくさいので嫌いなんですが、言語系科目は大好きです。国語の時間はいっつもどきどきわくわくでした。
特に近代の俳句や短歌が好きで、あそこまで文字数と形を限定された中にきっちりと自分の主張を封じ込める様は見ていて感動しました。「五月雨の 降り残してや 光堂」なんて、ただでさえピカピカに光る金の建物が長雨を受けてより複雑に光を躍らせる様子が目に浮かんだものです。良い文章は、何かを見せる。つまらないのは見えない文章。そんな考えが生まれた小中学生時代……。
で、大学生になってレポートを初めて出したときのことです。「綾名君、レポートは小説じゃあないよ」と、突っ返されました。事実だけを単純に、一切の感情を入れず報告するのがレポートなのであって、余計なものが入りすぎている、と言うのです。まぁ確かにそれが科学的姿勢であって、レポートを書くなら余計なことは書いてはイカンと学んだのです。
そしてシナリオをデバッグしたり追加したりしてる今、時折あまりに無感情な文章を見つけます。ゲームって視覚情報がかなり多い表現法だから、頭は映像を中心にして発想します。テレビドラマを頭で流して、言葉に置き換えている感じです。そして出来上がった自分の文章を読み返していくと、カラフルに彩られた元気の良いはずの言葉が時としてモノトーンになるかあるいはぷっつりと切れてしまっていることがあります。こういうのは大抵、理系の文章を書いてしまった、変換ミスをしたときです。
面白い文章は映像を作らせる。感情がこもると相手に伝播する。そんな中で理系の文章モノトーンはよく目立ちます。なんか自分は4年間で少しは理系になれたようで、ちょっとうれしい。