Images I saw in childhood

小さい頃から「お前は感性が特殊だ」と言われて育ってきた気がする。
絵や映像、音楽に対して、何も考えなくても頭の中でドラマが流れ始めることが良くあった、というかいつもそうだった。小学校のときなどは先生のピアノを聴いて「空が見える曲だ」「草原が広がる」などと感想を漏らし、歌詞を見てみると本当にそれを描いた曲であった覚えがある。ヴィヴァルディの「四季」の内、春を聴いたときはうららかな日差しの中、「頭が大変いい天気」の女の子がランランスキップをしている様子が浮かんだものだ。
それはただの言葉を聞いたときにも起こった。固有名詞を耳にしても、何かしら変なイメージは持ったものだ。時計、と聞いただけで長針くんと短針くん、秒針くんが遊んでいる様子が見えた。えりこ、などという名前を聞いても、快活なポニーテールの元気な女の子を想像した。けんじ君、スポーツ刈りのくせに運動音痴。かずあき君、さらさら髪がイカすおしゃまなやつ。
そういう子供だったので、2歳ぐらいのときに近所の相原さんに突然「さんちょ」という名前をつけたらしいが、記憶にない。私は相原さんに何を見てさんちょと呼んだのであろうか。相原さんはさぞ困惑したことであろう。突然幼子に指差され、挙句「さんちょさん☆」などと言われては。


しかし、なんにでもイメージをつけていけるという妄想癖のおかげで、私は勉強面で大いに助かった。例えば「8×9」という字面を見るだけで、「72っぽい感じ」がしたのである。
Cu + O →CuOという化学反応式を見ても、CuとOが2つある手をそれぞれ握り合おうとする瞬間が見えるのだ。
要は何でも脳内で映像化し、妄想し、ニヤニヤしてきたのが私の22年間である。


だから、幼い子供が「一見するとおかしなこと」を言い始めると、私は何かワクワクするのだ。
先日電車内でやはり2歳ぐらいの子供に指差されて「ぱんだ〜☆」と言われたことがある。彼女は私の何にパンダを見たのであろうか。いや、もしかしたらパンダではなく、彼女の中にしか存在しない「ぱんだ☆」なのかも知れない。ともかく私は「ぱんだ〜☆」らしい。
親御さんは切なそうな顔をして謝っていた。私はやや混雑する電車内で「ぱんだ〜☆」返しをしておいた。彼女は大変喜んでぱんだぱんだと繰り返した。2歳と22歳と夢のコラボレーション。親御さんは先程と違う意味で切なそうな顔をしたが、見なかったことにした。


私はいわゆる子供好きではないが、いわゆる「子供の想像力」といわれるものが好きだ。
ぜひともそれを無くさないで、日々妄想の中に生きてほしいものである。